平将門 天慶の乱

 今から凡そ1000年を越える昔、人皇六十一代朱雀天皇の御代(930〜946年)、 関東下総の国相馬郡猿島(茨城県)に、桓武天皇五代の子孫で、相馬小太郎将門(平将門)という武勇名高い武将がおりました。
  将門は鎮守府将軍平良持の子で、京都に上り、摂政藤原忠平に臣従して検非遺使(警察等)に任ぜられることを希望しておりましたが、受れられず関東に帰って悶々の日々を送っていました。

 そして、威勢の余り謀半を企て、勝手に、内裏(都)を造り、自ら親王と称して公然と国に背くようになり、律令国家に対抗する国家を坂東(猿島)の地にたてようとしていました。
 このことが朝廷に聞こえ、驚いた朝廷は、摂政関白忠重公、六孫源経基に東夷征伐を仰せ付け、諸国の武士を集めて、討伐の軍を下向させた。
 しかし、その東下に先立ち、先に攻め殺された伯父の常陸大掾国香の子、平貞盛が、下野押領使藤原秀郷らの授けをかりて勢力を盛り返すや、 天慶3年(西暦940年)2月14日、将門はついに敗れて、一党と共に滅ぼされました(天慶の乱)。

十九首塚の由来

 藤原秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級と、将門の念持仏の薬師如来等を持って京に上ることになり、掛川に宿まできました。
一方、京に於いては、公卿大臣協議の上賊臣の首級を禁裡(天皇)に近づけてはならないと、検視の勅使が派遣され、 たまたま、この地(現在の十九首町)において、将門等の首級とあい、 血洗川(東光寺南側小川)で首級を洗い、曲橋の欄干に十九人の首を並べ検視を受けました。

 首実験のあと、さらし首にして、十九人の首は無残にも路傍に捨てられることを聞いた藤原秀郷は『将門は逆臣なりとも、名門の出である。 その死屍の鞭うつは礼に非ず。』といって里人たちと、十九の首を別々に埋葬して、懇ろの供養しました。

 時に天慶3年8月15日でありました。
(今から1062年前)。
 当時、将門は民主主義に徹した武将であって、民衆の信望を集め平親皇と親しまれたといわれています。

現在の十九首塚

 初めは十九ヶ所あった首塚も長い歳月の流れと土地開発のために年々数が少なくなり、現在では、将門のものと思われる大きな塚一ヶ所となっております。
  地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。

 その後里人たちは首塚を町の守り神として、将門の霊を弔うため春、秋、二季の彼岸と、8月15日の命日には、区民参加の供養祭を行い、今日まで続いております。

また、秋の掛川祭では、平将門を祭る東京・神田明神の祭礼「神田祭」を題材にした舞踊「清元・神田祭」の一場面を出し人形として屋台に飾り、3年に一度の掛川大祭では、小学生以下の女子が、神田祭の手子舞衆の衣裳を纏い、家々の軒先や各町の祭典会所等で、「清元・神田祭」等を披露して廻る。

十九首町往還

下俣町と十九首町の間を流れる血洗い川(現在の下俣川)平将門伝説の地で、天慶の乱で討伐の藤原秀郷の一行が常陸から将門と家来十八人の武将の首級を携えて帰る途中、京からの首実験の使者に、東海道の真ん中のこの地で行き会い、そこに流れる小川(血洗い川:通称どんどろ川)で首級を洗い、川辺の東光寺の所の橋に掛けて首実験の上、ここに埋葬したという。

川のところで首を懸けたので「懸川」という説もある。

往還より北に入る東光寺ははじめ行基菩薩のおこした草庵といわれ、薬師如来を祭る古い寺院で、境内の医王山平将寺(現東光寺)は将門伝説の十九首塚と平将門を祭っていた。
また、境内には八幡宮(後に大池に移され池宮八幡宮となる)を伴う大寺であった。
中世の戦乱で荒れ果てたのを、天文年間に禅僧鳳積和尚が曹洞宗に改め、永江院の末寺として、再興した。
境内には、成田山不動堂のほこらがある。

また、成田山新勝寺は天慶年間、将門の乱の時、高尾山護国寺にある弘法大師手彫りの不動明王を勅使により実朝大曹正が、下総に移して祭り、将門討伐の祈願をしたのが始まりである

明治10年に平将門縁の東光寺が、本山の新勝寺より不動明王の霊を移して祭ったもので、大正14年には遠州では唯一の遥拝所として許可を得ている。

毎月の28日は、縁日として賑わう。

往還の西側に掛川藩主お抱えの絵師村松以弘の生家がある。
以弘は、江戸時代後期の谷文兆の弟子で、藩主の命により富士山や伊豆の風景を描写のため甲州、駿河、伊豆を訪れた。

”掛川四景”、”白糸の滝の富士”は著名な作品である。
往還の曲がり角を西に真っ直ぐ行くと小鷹町に入る。
十九首裏(小鷹)は、明治30年台から昭和戦前までは指定地としての、掛川遊郭をはじめ。映画館、芸者置屋、飲食店、カフェー、銭湯、髪結い、貸座敷等があり、当時は掛川の歓楽街であった。

掛川市文化財保存会・十九首塚保存会 平成14年12月 記(平成21年一部編)

十九首塚へは、掛川駅から西北へ約1.5Km
(歩いて約20分です。)

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